五木寛之

 ひょっとすると、少年時代にとんでもない価値大逆転の時代を通過した体験と、いまの私の暮らしぶりのいいかげんさとは、無関係ではないのかもしれません。自分ひとり何をどうがんばろうと、大きな社会の変動や時代のうねりの前には、ほとんど無力なのだ、と、体のどこか深いところで感じているようなのです。  だめなものはだめ、できないことはできない。個人の努力も善意も、むくわれないときはむくわれない。いや、むしろそのほうが多いのが人間の世界である、と、心の底でひそかに思っているのです。  正直者がばかをみる、という言葉を聞いて、十代のころ思わずびっくりしたものです。なんだって? これまで正直者がばかをみなかった時代なんて、一度でもあったんだろうか。いまごろ何を言っているのか、と素直に驚いたからです。  それを、ただ、ひねくれた少年の歪んだ考え、と切り捨ててしまいたくない気持ちが、いまでも私の中にはあります。  正直者がばかをみるのは当たり前だ、と信じこんでいればこそ、私はこれまでに何度も全身全霊で感動できる、めったにない出来事を体験することがあったのです。  世の中には、正直者がばかをみないことも、ごくまれにはあるのです。それは事実です。私はこれまでに何度もそういう例を見てきました。そして本当に心の底から感動したものです。  努力がむくわれることもまた、まれにあります。めったにないことだが、絶対にあります。努力がむなしいなどとは決して思いません。しかし、それはこの世の中で、ごくごくまれな、大げさに言えば奇跡のような事件としてあるのであって、それ以上ではないのです。  露骨に言ってしまえば、正直者はおおむねばかをみます。努力はほとんどむくわれることはありません。